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2016.6.16(木)
ひろ☆たかさわのディベートちょっといい話
第159回 「男児、森林置き去り事件」(2016年6月16日)

週刊コラム 時事ネタをネオ・ディベートで紐解く
ひろ☆たかさわの ディベートちょっといい話  第158回
こんばんわ
6月にはいって九州から梅雨入り宣言。
被災した熊本が心配だけど
毎年の自然現象だけに
なんとかしのいでもらいたいと切に願うわ・・・・
北海道で置き去り7歳の男の子が
無事に発見されたニュースが流れ、
ひとまず安堵の声と、
生存していた奇跡を
「偶然が重なった生命力」と言われている。
親をもつ子供の気持ちとすれば、
これ以上ない結果だし、
7歳の子供の気持ちを思うと
いたたまれない。
ただ、1週間捜索隊を動かしたのも事実だし、
不可解な点もいろいろある。
今回の問題が
「しつけ」なのか「虐待」なのか。
議論がわかれる。
しつけという、教育であり正義の行為と、
虐待という、許されざる悪の行為と
まったく反対の行為。
今回わかることは
当たり前のようだけど
本人(親)の意思と、結果や他人が見る目は
まったくちがうということ。
殺人事件では
殺すつもりはなかったけど、
殺してしまったという
「殺意」の否定や、動機が問題になるけど
結果的に殺してしまったら
その結果に対しては
殺意があろうがなかろうが、本人の行為として
まずは裁かれる。
この
「・・・するつもりだったけど」
結果的に自分の意図する方向とは別の結果が生まれたとき
どちらに責任があるのか??
サッカーやラグビーでパスミスが起こるとき
ずっと見ていると
ほとんどはパスをだしたほうに責任があるように思える。
きちんと捕れるところにとれるスピードで
パスをだせば、ほとんどミスは起きない。
ただ、受ける方も、
予測をして動くとか、捕りづらいボールでも捕球する技術を学び
身に着けることは可能。
これは、その個人やチームの連携で
時間が必要。
コミュニケーションも
これに似ている部分がある。
今回は
「しつけ」のつもりが
結果は「虐待」になってしまった可能性がある。
北海道警察は、心理的虐待の疑いで
函館児童相談所に通告した。
本人は「虐待するつもりはない」といっても
これは結果であり弁明にならない。
森林に置き去りにするという「しつけ」は
教育方針のなかでやった
こどもに対する親の愛情であって、
虐待ではないという主張も考えられる。
子供がいうことをきかないという
段階的なしつけにおいて、
直接いってもわからない
手を替え品を替え
いろいろな角度で説明したり、
すこし強い口調で怒鳴ったり、
それでもわからなければ、
げんこつやお尻をたたいたり、
おやつを与えない、おこずかい減らす、
いろいろなしつけの方法があると思う。
今回は、
森林に置き去りにするという恐怖を与え
結果どうなるかを予測することが
親には必要だったのでしょう。
これは、義務とか法的なものとかいう問題ではないわ。
子供は、これを「しつけ」と捉えたのか
「虐待」と捉えたのかがわからないけど、
親にしてみれば「しつけ」と捉えて
迎えにいくから反省してほしかった。
でも、子供にはそれは伝わらず、歩いてどこかにいってしまった。
結果、最悪な事態はまぬがれたけど、
大惨事になった。
日常の会話やお客様との商談でも
「そんなつもりで言ってないのに
まったくちがうように解釈された・・・」
という場合、
多くは、説明が足りなかったり
言葉づかいや間違っていたり
相手の立場にたってなかったり、
説明する側の落ち度になることが多い。
これは、関係性にもよるわね。
夫婦であったり親子であったり、
何年もともに仕事している関係、友人であれば
いってることを自分なりに解釈したり
相手の意図を汲むくともできるけど、
そのときの精神状態や感情で
きちんと伝わらないこともある。
だから、
言葉でもメールや手紙でも
きちんと主語や日時などをしっかりつけて
相手がどう思うか?
結果として意図しない行為をしないか?
第三者に迷惑がかからないか?
充分にキャストライトアップしないといけないのよね。
もちろん、
うけとるほうも
その裏の背景や、意図を理解するように努力することも
大事なことだけどね。
「叱る」とか「しつけ」には
そのような要素が十分にあるのだから。
舛添東京都知事が
政治資金を、公的な会議等に使用したつもりが
結果的に私的流用していた・・・・・
これは、意図の汲みようが無いですけどね。
それでは また
BY ひろ☆たかさわ

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