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2018.5.8(火)
ひろ☆たかさわのディベートちょっといい話
第256回 「鉄人・衣笠祥雄さん」(2018年5月8日)

週刊コラム 時事ネタをネオ・ディベートで紐解く
ひろ☆たかさわ の ディベートちょっといい話  第256回

こんばんわ

鉄人・衣笠祥雄さんが
71歳でこの世を去りました。
あまりの急逝に驚き、
偉大さをかみしめるまもなく
また昭和の野球界を支えた偉大なる名選手が
帰らぬひととなったわね・・・・

1987年
ルー・ゲーリッグを破る2131試合連続出場に到達。
王貞治以来プロ野球2人目の国民栄誉賞を授与された。
そのフルスイングや、
左肩を骨折してまでも試合に出続けた逸話は、
記憶に残るおとこしての側面が頭にのこるけど、
ホームラン504本(歴代7位)、1587の三振
連続試合出場2215試合は、
堂々数字にものこるいつわりない名選手。
広島の背番号「3」は永久欠番。

その衣笠さんが
「なぜ監督にもコーチにもならなかったのか??」
各方面で諸説が流れる。
真相はわからないというのが結論なのだけど
これほどの選手が監督にならなかったのは
単に、「名選手、名監督にあらず」では片付けられない。

本人が本当に監督をやる意思があったのか?
これこそ
本心はわからない。自分にはむいてないと固辞したとの
話も伝わる。
その野球理論や一貫性は、解説をきいていればわかるし
チームの優勝への方法論や、変革への志は
歴代の広島のなかでも随一とされている。
一方で、本当にに心優しい一面もある。
ひとたびグランドを離れたときの紳士ぶりは
ほんとに道を歩いているひとにも気配りをするほど。
エートスにあふれ、上から目線とはほど遠く
だからゆえにこの優しさが災いしたのかもしれない。

盟友、山本浩二が監督になったことも
タイミング的には良くなかったのかしら。
本人は、やはり広島へのこだわりはあったと述べている。
「このチームで勝ちたい」
そんな想いがつのるのは自然な流れだし、
自分の野球観にてらして
いろいろなアイディアがうかび、実行したくなる。

1998年から2012年まで15年にわたってBクラスが続いた広島と、
衣笠氏が監督にならなかったことの因果関係についての考察があった。
やはり、ものごとに政治力はつきまとう。
衣笠氏が監督に就任する際には
コーチングスタッフや戦略について
当時の松田オーナーに様々な提言をしたという。
これについては、
高橋慶彦氏や、大リーグにわたった黒田や阪神に行った新井も
同じだという。
まったく聞く耳をもたないオーナーの松田氏に
愛想をつかした選手達は出て行った。
衣笠氏は激論したけど聞き入れてもらえなかった。
なんでも球団のいうことを「はい、はい」と聞く優等生を登用し
異論や提言を述べる人間を排除する。
そんな組織の内情が見え隠れする。
そのあと、2016年には見事にリーグ優勝し
いまでは強い広島カープは戻ってきたのだが・・・
この長期低迷の裏事情はそこにあるとの指摘は多い。

1979年の「江夏の21球」のなかで、
ベンチの采配に怒りがこみ上げる江夏に
衣笠氏が言葉をかけておさえたのは有名。
これは、江夏の気持ちになるのではなく
「江夏になりきる」という衣笠さんの美学や信念なのだそう。
だから、ことばに重みがのこる。
心優しきなかにも、一貫した野球道。
だからカープを愛しているけど
カープのユニフォームは着られない。自分のカープは作れないと・・・

晩年は、
子ども達へ野球のたのしさ
頑張ることの大切さを教えつつ
テレビでの解説を、無くなる直前まで
声を振り絞って続けた
本人も、広島カープへのこだわりあったけど
最後は縁がなかったと述べている。
「忍耐」「努力」「根性」との三位一体
耐えるのではない、やり遂げる、
師の言葉を受け止めながらも最後まで貫いた野球人・衣笠祥雄。
ご冥福をお祈りいたします。

それでは また・・・・

BY ひろ☆たかさわ


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